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会誌『癒しの環境』vol.14 No.2
(2009年11月30日刊行)

「色、かおりと癒し」
  ―第40回研究会報告−

〜最新号の巻頭言から〜
会報

 安全が癒しの基本であるという観点からすると、人間の嗅覚が一番の安全対策である。火事や腐った食べ物を感知する能力があり、危険察知にもっとも機敏に働く。ヘビは嗅上皮よりも主要な嗅覚器官(ヤコブソン器官)を持つ。鋤鼻器ともいうが、鼻腔と完全に連絡を絶った口の中にある。二叉に分かれた舌を頻繁に出し入れしているのは、空中の化学物質を舌に付着させ、鋤鼻器に運び匂いで危険を察知しながら進むのだ。哺乳類では一般的な嗅覚ではなく、フェロモン様物質を受容する器官に特化していると考えられている。ヒトにはないとされているが、キスしたがる動物であることから考えると、よくよく探すと、ひょっとして、その痕跡はあるのかもしれない。抗がん剤投与中は嗅覚が鋭敏になるのも、ターミナル期は匂いに過敏になるのも、五感がとくに研ぎ澄まされるからであろう。
 麝香で代表されるように、香水という嗅覚情報は少量がよい。視覚情報も多いほどよいわけではない。小説が映画化されたときに、原作を読むのとどちらが先かで迷うことがある。映画『ローマの休日』を観たあとに小説を読んでも、オードリー・ヘップバーンが行間に顔を出す。『沈まぬ太陽』の映画を観てから山崎豊子の原作を読んだ人は、俳優・渡辺謙の顔しか思い浮かぶまい。そのほかの顔を創造するには、よほどの想像力がいる。逆に、小説を読んで自分なりの主人公像を作り上げていた人は、渡辺謙の顔に違和感を覚えるかもしれない。視覚情報量が多すぎて認識との整合性が取れないのである。
 生後10カ月で視力を失い、50歳で視力を取り戻したオーストラリアの男性は、「色情報が多すぎて疲れる。見えないときのほうが幸せだった」と、夜になっても電気をつけずに暗闇でひげをそり、食事を取った。視覚情報の洪水に疲れ、うつになり、3年後に亡くなった。49歳で手術を受け、視力を取り戻した男性がその体験を語った本がある(ロバート・カーソン著『46年目の光――視力を取り戻した男の奇跡の人生』NTT出版、2009年)。3歳の時に視力を失った彼は聴力をフルに生かして、歩き、乗馬、スキー、オートバイを楽しみ、そして恋をした。子どもが二人でき、会社を何社も起業する。目が見える人以上にアグレッシブに生きていた。視覚を得たときに感じた新しい世界は、想像を絶するものすごい量の色の洪水だった。視力はあっても、人の顔は認識できない。白が見え、白衣だと認識し、その上のまだらのものと左右の小さなまだらのものが、顔と手であると認識した。しかし、妻の顔と隣人の顔の差がわからない。触覚が見る機能を補充していたので、笑顔も、怒った顔も、手で触ってはじめてわかる。触ることのできない背景は理解できない。
 脳が視覚情報を処理してはじめて見える。脳でソフト処理をすることによって、遠近とか顔の認識とか、物の境界がわかる。乳児はよく、自分の手をじっと見つめている。手を自分で動かして、その手を眺めながら、遠近も同時に確かめているのだろう。手を動かす神経と視覚の認識をつかさどる中枢が一致しないのだ。それをだんだんに一致させて成長していく。普段は全く意識しないで、洪水のような視覚情報を勝手に脳が処理してくれている。だから、赤だけで描かれた田村能里子の絵はなんとも不思議な世界に見える。日常の私たちは色の洪水の中にいるから、逆に赤だけの描写が新鮮で、異空間を感じるのだ。
 バン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した盲目のピアニスト辻井伸行さんは、視覚健常者以上の感覚を想像の中で、深く広げることができたのだと思われる。情報量が少なくても、人間はその感覚世界を果てしなく広げることができる。
 ものを見るという行為の多くの部分は予備知識と予想を土台にしている。目が見えない=不幸、目が見える=幸福というのは見えている人の勝手な思い込みであろう。感覚情報量は多ければよいというものではない。感覚と、脳を働かせることと、両方をうまく使って癒しの環境は達成される。


癒しの環境研究会代表世話人
東京医療保健大学教授  高柳 和江


最新号・主要目次
『癒しの環境』Vol.14 No.2
CONTENTS 2009.11月
T.特集 「色、かおりと癒し」 −第40回研究会報告−

シンポジウム
創造する脳と色

東京女子医科大学名誉教授 脳神経センター所長 岩田 誠
芸術は認知症の人びとの心を支えるか

吉岡リハビリテーションクリニック院長 宇野正威
治す色、癒しの色、色を聴く

東京医療保健大学教授 高柳和江
香りで不安を癒し、元気になる

杏林大学医学部・精神神経科学教室教授 古賀良彦
楽しさの発見――アロマセラピーと痛みの緩和

医療netインテグレイト 日本アロマセラピー学会認定看護師 吉江由美子

U.第23回病院見学会記録

 1. 医療法人社団和風会 千里リハビリテーション病院
“気づきの医療”から生まれた病院とは思えない病院
特定医療法人仁医会リハビリテーション科医師 中澤 信
医療と生活の融合という視点
ヤマギワ株式会社計画デザインセンターPDC 山本孝幸

 2.医療法人友紘会 彩都友紘会病院
「人と寄り添う医療」への思い
島根大学医学部付属病院看護師 家本美佳
芸術は人を癒す――彩都友絋会病院の癒し
徳岡昌克建築設計事務所 両口 猛
 
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